… “ダンサンカンノホー”とは何なのか?
こんにちは、
案内人のいけだ法弘です。
まだご存じない方もいるかもしれません。
ダンサンカンノホー、…呪文ではありません。
断三感の法と書きます。
これは呪文のような言葉ではなくある状態を指しています。
今現在も実践し、喜ばれてい方が大勢いらっしゃいます。
方法は簡単です。
ちなみに、メルマガも発行しています。
登録者の数はすでに7000人以上。
実践されている方はその数倍(ご家族、パートナーなどを含む)。
これからますます増えていくでしょう。
毎日たくさんの方から喜びの声を頂戴しています。
― 前段 ー
「幸運と“つながる”方法。これについてお話してもよろしいですか?」
…ぼくがそう語りはじめたとき、最初の“反応”はどうだったでしょう。
どうだったと思いますか?
無視されたのです。「ハァ?」というかんじでした。
・・・
それでもぼくが話しはじめると、今度は非難めいた声。
「裸になる?どうして?ばかばかしい」「そんなのインチキに決まっている」
・・・
まだ説明をはじめたばかりです。
それなのに、なぜ“ばかばかしい”と?
話を聞こうともしない。
どうしてインチキに決まっているといえるのでしょう。
内容を知りもせず、いや、知ろうともしない。
…ぼくは逆に興味がわいて、その声の主の“内なるこころ”を探ってみたのです。
“ばかばかしい”といった40歳過ぎの男性。
かれは幼い頃から両親に人間性を否定され育ちました。「それはダメ」。否定することが息子のしつけだったのです。かれの深い悩みの直接の原因でした。かれは学生時代、イラスト関係の仕事に就きたかったのですが(絵が大変上手です)、父母に「恩知らず。大学までの学費を今スグ全部返せ!」と怒鳴られ、しかたなくサラリーマンになりました。しかし不景気でその会社の事業が縮小。退職。それから数回転職しましたが、転職のたび給料は減り、苦しい生活の中、仲の悪い親の介護がはじまろうとしていました。かれはじゅうぶん苦しんでいるのです。だからぼくの話に興味を持ったのです。
“インチキに決まっている”と言った50代の男性。
母親の介護をされています。その母親は宗教にはまり、隣近所をしつこく勧誘。家の財布からも多額の寄付。愛想を尽かした父親は家を出て、ついに離婚。家族はバラバラになり、それでも母親はその宗教を信じて息子の嫁にも信仰を強制。おかげで家では揉め事がしょっちゅう起きているのです。この方も苦しんでいました。
両人ともぼくの話を聞きにいらしたのです。“ばかばかしい”と口ではいいながら、ほんとうは救いが欲しかった。こころのなかで泣いていらした。
“やり直したい”
“このままでいたくない”
“だれか助けてください…”
人が流す涙。
涙には性質があるのをご存知でしょうか。涙が放つ悲しみの氣、この氣は人から人へしずかに“伝染”するのです。かれらの悲しみに胸が震えます。
“だれか助けてください…”とかれらは願っている。
人生をあきらめてはいない。
だれもあきらめてはいない。
だからぼくの話を聞きにきてくれた。
“やり直したい”“このままでいたくない”と願っているのです。
ぼくは、かれらのこころのうちを知り、反省すべきはぼくの方だったと悟りました。伝わらないのはぼくのせいです。ぼくの説明のしかたが悪いのです。かれらのせいではありません。
あらためて氣の集中をおこないました。すると、聞いてくれる方々の顔つきが変わりはじめたのです。初めは文句をいっていた、かれらもです。
・・・
断三感の法について、ぼくは話します。会場は静まりかえり、「ああ…」「わたしも経験したことがあります…」と共感してくれる人たちが現れはじめます。
実践する人々の不思議な体験を紹介すると「私もそうなりたい…」と泣きだす人もいました。
ぼくにできることはこうやって“話す”ことだけです。ですので、聞いてくれないのであれば、これから先その人に何も起こりません。
しかし、もしその人がぼくの話を聞いてくれるのであれば…
・・・
この世界は複雑です。
複雑になりすぎました。
“混乱”しています。
「まじめでさえいたらなんとかなる」「努力すればかならず報われる」といわれていたひと昔まえのシンプルさは、もうありません。
「まじめでさえいたらなんとかなる」「努力は報われる」。あの時代のシンプルさはなんと素晴らしいことだったのでしょう。
しかし、今はもうシンプルだった時代ではありません。
残されたものも今、消えつつあります。
それでも人は生きていかねばなりません。今日は今日、明日は明日。つらくとも生きていかねばなりません。
複雑さは自らそれをつくりだした人間を苦しめるようになりました。
苦しさを振り払おうにも、別の苦しみが覆いかぶさる。
そうやって苦しんでいる人は大勢います。
あなたも、その一人かもしれません。
断三感の法は、裸になって座って目を閉じるという行為です。
それだけです。
そこには何もありません。
ただ裸になって目を閉じ座る。
そうやっているあなたがそこにいるだけです。
しかしその時間だけ複雑さから遠ざかります。
じわり、じわりとこの世から遠ざかる。
じわり、じわり。
それが断三感の法です。
そして多くの人がこのような印象を最初に持ちます。
「…不思議だ。この先に、“何か”あるようだ」
断三感の法は“結果”を体験させてはくれません。
体験するのは結果にいたる“最初”です。
しかし最初がなければ結果は生じません。
人はそのように練習する必要があるのです。
敵を倒したいなら、“サンドバッグ”をまずは叩くのです。
サンドバッグを叩くのと、敵を相手にするのとでは違います。
あなたを苦しめている敵はきっと思いのほか強いでしょう。
しかし、戦わねばならないとき、サンドバッグを叩いてきた人と、
そうでない人には差が生まれます。
真剣にやればやるほど、その差は大きくなり、
サンドバッグを叩いてきた人は負けにくくなるのです。
■やってみました断三感の法
「気分が落ち込んだりイライラする時はあります。でも断三感の法をしているとなぜか“うん。私は大丈夫”という気持ちにしてもらえるのです」
「大変なこともあるけど、生きてるってホントに素晴らしい!よかった!わたしって最高!」
「この先に“何か”あると本当に感じます」